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伊治城跡 [歴史]

狩野英孝の実家を後にし、伊治城を目指しました。

番外編はこちら↓
http://jm7xzc.blog.so-net.ne.jp/2014-08-12

伊治は「いじ」または「これはり」と読む説がありますが、文献には読み方まで記載されていないのではっきりとしていません。

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伊治城は、767年鎮守府将軍田中多太麻呂が作ったとされています。8世紀中頃から9世紀にかけて、朝廷が東北の地を征しようと多賀城を建設し、蝦夷討伐の拠点を次々と建設していきます。この伊治城も桃生城と同様に建設されました。城と言うよりは柵というもので、政庁を中心とし、周囲に土塁や築地塀で囲んだものです。伊治城は東西700m、南北900mの大きさだったと言われています。
780年に、栗原郡の大領であった伊治公呰麻呂が覚鱉城建設の為の検分を行うため、陸奥国按察使の紀広純と牡鹿郡の大領道嶋大楯が伊治城を訪れた際に、二人を暗殺します。その後、多賀城の焼き討ちも行ったとされていますが、これはあくまで状況から推測されたものであり、実際には呰麻呂が行ったかどうかはわかりません。しかし、これにより朝廷は、蝦夷を侵略すべく征東将軍を次々と送り込むことになります。
征東大将軍紀古佐美の率いる朝廷軍が、巣伏の戦いで阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗したことをきっかけに、坂上田村麻呂が征東副将軍として、その後、天皇から節刀を賜り征夷大将軍として蝦夷侵略に乗り出すと、今までの蝦夷の勢力も勢いを弱め、田村麻呂は阿弖流為と母礼の降伏を受け入れます。
このような情勢の中で、伊治城は重要な役割を果たしたと言われてます。

伊治城跡発掘調査の様子が栗原市築館出土文化財管理センターに収めれています。

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※ 伊治城の政庁跡です。

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※ 調査の結果、政庁はこの画像の真ん中あたり(道路の部分)に建っていたと考えられています。

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※ 弩の存在が分かった日本で唯一の場所です。

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※ この地図で伊治城の位置が分かります。

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伊治城の土塁と大溝の周りには、こんなものもありました。
阿久利川事件のことについて書かれていました。

蝦夷からすると朝廷の行動は全て侵略であります。蝦夷が朝廷に対し悪さしたわけでもありません。勝てば官軍ですから、戦に勝った方が好き勝手できるのは仕方のないことです。しかし、教科書に載っている歴史をそのまま読み取ることは非常に危険です。
昔、昔、東京から首都を移動させるという話があったとき、仙台南部も候補に挙がっていたことがありました。その時に、当時のサントリーの社長佐治敬三氏がこう言っています。

「仙台遷都などアホなことを考えてる人がおるそうやけど、東北は熊襲の産地。 文化的程度も極めて低い」

現代においても、差別はあるんですよね。
まぁ、熊襲は九州で、東北は蝦夷ですけど^^;
もっと、勉強してから発言してほしいですねw

佐治敬三さん、まだご健在なのでしょうか?
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