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白河の関 [歴史]

高校野球も明日が決勝ですね。
今年も、結局東北勢は敗れてしまいました。
高校野球では、優勝旗の「白河の関」越えと言って、長い間白河から北の都道府県が優勝していませんでしたが、近年、白河を遙か超えて北海道まで行ってしまいましたねw

さてさて、では、「白河の関」とはいったい何なのでしょう?

今日は、法要があり白河まで行ってきました。
そのついでに、白河の関跡を見てきました。

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※ 駐車場の脇に案内板があります。

白河の関とは、何かと言いますと・・・

wikipediaより引用
白河の関(しらかわのせき)は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所である。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い。
引用終わり

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でも、ちょっと違うのです。
関と言っても関所ではなく、城柵のようなものだったと考えられています。
ここは、朝廷の蝦夷北伐のための前線基地だったのです。
蝦夷の南下を食い止める為とも言われていますが、朝廷が蝦夷を侵略しなければ戦は起きなかった訳で、このようなものも必要なかったと考えられます。

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白河の関の文献は少ないようで、あまり詳しいことは分かっておらず、いつできたのかさえも不明です。
しかし、平安時代初期には、寂れていたと言われています。なぜかというと、前線基地はさらに北にある多賀城や胆沢城に移っていたからです。そこまで朝廷の侵略が進んでいたのです。

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※ 土塁の内側です。ここに政庁があったのでしょうか?

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※ 寛政の改革で有名な松平定信が位置を特定したようです。
「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」←学びましたねw

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※ 隣の白河関の森公園から、白河の関を見ると・・・(丘の森です)

白河の関跡は、多賀城や伊治城のように推定復元模型や図があるわけでもなく、ちょっと残念でした。
しかし、安部貞任討伐のために多賀城に向かう源義家がこの場所で休んだり、奥州藤原氏討伐のために北に向かった梶原景季が歌を詠んだのかと思うと、なぜか不思議な気持ちになりますね。

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